Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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はじめに
本論は、「この私は他人より、生存に値するか」という価値軸に沿って、我々一人ひとりが際限なく階層序列化されていく社会的過程を論じる。それは、「汎優生主義(Pan-eugenics)」という新たな社会的過程である。

1.序論:社会的過程としての<我々自身の無意識>の基礎論的位置づけ

問題設定――「汎優生主義」への導入
「汎優生主義」は、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という無意識的信念をその核にしている。<我々自身の無意識>としてのこの信念は、より簡潔に言えば、「この私は他人より、生存に値する」という無意識的信念である。逆に言えば、「他の誰かが、この私より生存に値する」となる。
個人の生存を無際限に階層序列化する社会的過程において、「この私」は、「他人より、生存に値するか」というパラドックスに満ちた問いに直面することになる。まずは、この袋小路の直中に照準しなければならない。
そのために、我々が、次の一連の質問に答えることを想定してみたい。質問は、次の三つ
である。
下記のそれぞれの発話文を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を記述して下さい。
問1:<これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>
問2:<さっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>
問3:<もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>
こうした質問に答えることにおいて作動する<我々自身の無意識>を想定しよう。それは、我々にとって意識化されることがない社会的過程である。この社会的過程は、「汎優生主義」と呼ばれる。そこでまず、この<我々自身の無意識>を、先の質問のテーマである遺伝子の改変との関係において位置づけてみたい。

社会的過程としての遺伝子改変――属性の序列化と生存の序列化
まず、遺伝子の改変が現実化した場合、この技術的過程は、<我々自身の無意識>を介して社会的に継承されることになる。すなわち、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という現実が、強制力として作用する。すなわち、我々がいったん遺伝子改変という技術によって作られた生(子ども)を産み出してしまえば、そうして産み出された子どもは(そしてそれ以外の社会の成員も)、そういった現実の強制力のもとへと組み込まれる。
ところで、人の属性の序列化は、属性の序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存自体の序列化でもある。属性を序列化する価値観は、生存それ自体を序列化する価値観なのである。こうした価値観は、「遺伝子疾患」という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存に比べて「より価値が低いもの」であり、「本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という社会的強制力のもとにある。遺伝子の改変・治療・予防等が不可能な事例であっても、それが現実に可能な事例がすでに存在している(と想定される)なら、本来はその出生(生存)自体が予防され得たという序列化が生じる。

原理的に応答不可能な世界――「すべては超微細レベルで決定されている」
では、そうした強制力が偏在する世界のイメージとはどのようなものであろうか。そこでは、「遺伝子改変により難病等の属性が除去された状態」と「いまだ除去されていない状態」という階層序列がつねにすでに前提されている。無意識においては、「先天性疾患という属性を持った人の生存の出生(生存)は、本来予防され得た」という言葉が際限なく反復されている。
このような世界は、苦痛であるというよりも、むしろ耐え難く退屈な世界であろう。そこでのキーセンテンスは、「なんだかつまらない気もする」である。それは、今風に言えば、際限のない「ダルさ」を表現している。それは、「もはや、あるいはつねにすでに、すべては超微細レベルで決定されている」といった言葉の際限のない反復で表現されるような「ダルさ」である。ここにおいて、あらゆる時間の関節が外れたかのような、「なんだかつまらない」世界が見出される。だが、個々人が<我々自身の無意識>に直面するという事態はあらかじめ排除されている。
もしある個人が、遺伝子の改変という問題に直面するなら、そこでは、この私の選択する行為がヒトという種の改変をもたらすことへの認識が求められる。私は、自らが選択した行為の結果としてその責任=応答可能性(responsibility)を引き受けなければならない。だが、この問題に関しては、どのような個人も厳密には責任を取ることができない。もし我々が、種を改変し得る選択をなし得たとしても、その選択の時点から際限なく続く時間の中でのヒトという種の変容に対する責任=応答可能性を負うことはできない。我々は、「原理的な無責任」、あるいは「原理的な応答不可能性」を強いられてしまうのだ。
以後の論述では、上述した「汎優生主義」という社会的過程を、我々自身の現在に向けて着地させることを試みる。


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